光念寺/加古川市のお寺・名所・旧跡のご紹介

皆さんこんにちは。 お盆も休みも終わり、今日からお仕事に励まれている方も多いと思います。 それにしてもなかなか涼しくなりませんね。

さて本日は、私が日頃から、お墓の建立法名の追加彫刻お墓の改修等でよくお世話になっております、寺家町の光念寺さんをご紹介したいと思います。

光念寺は、JR加古川駅から南西へ徒歩約8分の所にある、慶長元年(1596)に本多西賢が創始したと言われる、真宗大谷派のお寺です。

加古川バイパスの加古川出口から南へ約800m、県道18号線の寺家町商店街の角、”かつめし”がおいしい『丸万』の前を西に入り、一つ目の角を南へ50mほど歩くと右側に見えてくるのが、光念寺です。 境内は、とてもよく手入れされており、気持ちの良いお庭が広がります。

山門をくぐると、すぐ左手に大きな石碑が見えてきます。 これは、江戸時代の俳人、栗本青蘿(松岡青蘿)の顕彰碑です。 栗本青蘿(くりのもとせいら)は、江戸生まれの姫路藩士でしたが、俳諧を志し、諸国を遍歴した後、寺家町の大庄屋『中谷慶太郎』の手厚い庇護を受け、俳諧師として活躍します。 慶太郎に与えられた庵を、『栗本庵』と名付け、諸国の俳人らと交友し、与謝蕪村らとともに、『蕉風俳諧中興六家』と呼ばれました。

 なかでも青蘿は、”門弟三千”と言われ、晩年には俳人最高の栄誉とされる、二条家俳諧の“中興宗匠”の職務を授与されました。 私もたびたび光念寺さんを訪れていましたが、こんなにすごい人にゆかりのあるお寺だったなんて、少しも知りませんでした。反省。

境内には、青蘿と彼の奥さん『おのぶ』、青蘿の弟子で栗本庵二世『玉屑』(ぎょくせつ)、四世『可大』(かだい)のお墓があります。 

碑文は、辞世の句となっています。『ふなばたや 履ぬぎすつる 水の月』

栗本青蘿のお墓のすぐ隣には、長州藩士『鳥尾小弥太』のお墓があります。 鳥尾小弥太は、維新の志士として、高杉晋作が創設した騎兵隊に属し、戊辰戦争などで活躍しました。 維新後は、陸軍中将、参謀局長、近衛都督などの要職を歴任し、枢密顧問官や貴族院議員まで務めた人物です。 維新の志士のお墓が、しかも長州藩士のお墓が個のお寺にあるなんて、なにか深い物語がありそうですね。

また、南側の入り口の正面には橋本関雪の父、海關が揮毫した石碑が有ったり、また、三代目住職「龍心(りゅうしん)」の妻は、赤穂浪士の一人「原 惣右衛門」の妹でしたので、「原 惣右衛門」ゆかりの「書状」や「大石 内蔵助」の「桜石」が伝わっています。また「原 惣右衛門」が大切にしていた「源平屋島合戦の枕屏風」も残されています。

なんかすごいですね。 こんなお寺が近くにあったなんて、少しも知りませんでした。 皆さんもぜひ一度散歩がてら立ち寄ってみてください。

それでは今日はこの辺で。

その他

前の記事

終活/終活ノート
その他

次の記事

盆飾り/迎え火/送り火/